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「お宅は泥棒が入りやすい、犬を飼いなさい」東京を震撼させた“説教強盗”が捕まるまで

解説:「昭和モダン」を象徴する犯罪

 真夜中、「もしもし」と言う声に目が覚める。枕元で男が穏やかな口調で言う。

【写真】逮捕された説教強盗・妻木松吉

「静かにしてください。騒いではいけませんよ。お金を出してください」。刃物を持っているのか。言う通りにすると、話を続ける。「お宅は戸締りはいいが、庭が暗いから泥棒が入りやすい。犬を飼いなさい」。防犯の心得を2〜3時間。夜が明けるころ、姿を消す――。

 そんな強盗事件が大正から昭和に代わるころ、東京北西部の住宅で連続。新聞で「説教強盗」の呼び名が付き「昭和のルパン」ともいわれた。1万3千人もの大捜査網をすり抜けて大胆な犯行は続き、男は並外れた敏捷さから「山窩」(山奥などを移動生活した人々)出身者ともうわさされた。資産家宅では競って犬を飼い、犬の値段が高騰。国会には「帝都安寧秩序に関する決議案」が提出されるまでに。

 以前の事件にさかのぼった捜査で指紋から身元が判明。1929(昭和4)年2月23日、左官の妻木松吉(27)が逮捕された。警視庁が認定した犯行は26(大正15)年7月から約2年5カ月間に強盗65件、窃盗29件。判決は無期懲役だったが、模範囚で、戦後仮釈放されて手記や対談で事件を回想し、87歳まで生きた。


"説教強盗"こと妻木松吉が逮捕されたことを報じた1929年2月24日の朝日新聞朝刊

 当時は「モボ・モガ」「エロ・グロ・ナンセンス」の時代。金融恐慌から不景気が進行し、農村は疲弊。娘の身売りが始まり、労働争議と小作争議が頻発した。人口流入が進む東京では新型の消費生活が生まれ、都市化の波は北と西へ拡大。新宿が新しい盛り場に。29年には最新風俗を取り入れた歌謡曲「東京行進曲」が大ヒットした。説教強盗は、現場がその地域に重なり、「昭和モダン」を象徴する犯罪となった。

小池新(ジャーナリスト)

◆◆◆

 満都を恐怖と戦慄のどん底におとし入れた稀代の盗賊・妻木松吉を当時の朝日社会部記者(河合政氏)が描く。

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝都震撼の説教強盗」

説教強盗が捕まった日 “セッキョウツカマルデロ”―― 

 朝日新聞社会部記者20年、それから従軍やら外地勤務やら十余年の生活だから、わが家に寝ていて本社からの呼出し電報をうけたことは数知れない。

 その数多くの中で、たった一ツ、いまなお忘れられない呼出し電報がある。曰く“セッキョウツカマルデロ”――

 勿論私は飛び出した。しかし心中この時ほど不快な思いで出社した経験はかつて無い。

 事件に明けくれるような記者生活、現場の仕事はもとよりだが、締切時間間際の出稿のどさくさなど、どんなに荒っぽい言葉が吐かれようとも、浴せられようとも不快な気持など持ったら、仕事はちっともすすまないものだ。

 意志が通じればいいというのが、発信者の常識だったらしい。

 しかし、朝日新聞社には決してこんな呼出しの電文がなかったのだ。

 説明すれば、説教強盗妻木松吉がつかまった時、朝日新聞の社会部デスクは、泡を食ってこんな同文電報を、事件に関係のない宮内省詰、文部省詰、東京市詰の記者にまで打ちまくって、全員をプンプンさせて出社させたのであった。

 これ程大がかりな事件が、いわゆる説教強盗だったのだ。

捜査員を軽くかわして逃げ続ける犯人

“静かに、静かに”あるいは“犬を飼いなさい”――この強盗犯人の常套文句が、犯行を開始して数件目に、“又しても説教”となり、“説教強盗現る”の見出しになってしまったのだ。この見出しをつけたのが時の整理部員であった伊東尽一君(現熊日編集局長)だった。記者は犯人と被害者の対話まで入れて、犯人の特ちょうを強調するようになって行きこれが朝日新聞の一つの特ちょうのようにまでなったものだ。

 この説教強盗が捕まったのが昭和4年の2月、犯行は大正15年からだが、昭和2、3年はその絶頂で、荒っぽいことをしないだけに却って不気味な気分だった。

 これを追う警視庁と、その追跡を避けて巧みに出没する犯人の、一種のかけひきは素晴らしいみもので、ジリジリと姿なき怪盗に迫る当局の手の微妙さが、胸おどらすようだった。

 怪盗の荒した場所と逃走経路の図面に、次第に線が多くなり、その線の交叉するあたりに配置される捜査隊は、ある夜は潜んでいるところから2、30メートル離れた木立に、サッと現れた怪盗を認めて追ったが逃げられ、或夜は正服巡査が不審訊問中、身をひるがえして逃げ、忽ち巡査を引き離して闇中に没し去ってしまったが、その遁走のストライドが常人とは考えられない程の大きさだったところから、山窩説が出たりしたものだった。

 その騒ぎの中でも緊張の極に達したのが、学習院事件というもので、この時ほど怪盗が何か巨大な感じを与えたことはない。

拾った金時計から犯人は"学習院構内の官舎の住人"?

 怪盗が奪ったものの中に金時計があり、これが品触れとなって、あらゆる時計商、質商などに廻されていたが、その時計が目白附近の時計店から現れたのである。

 金側はひきちぎられて中味だけだったが、優秀なものだったのですぐソレと判り、当時の高田署に届けられた。

 この売却主が学習院構内の官舎の住人とわかった時の騒ぎは大変だった。

 警察担当の記者たちには、学習院の賄い騒動だといってごまかし、一方宮内省にお伺いをたてて、売却主即ち説教強盗被疑者を逮捕するという筋だった。

 “どうもおかしい”と首をかしげながらも、解決寸前という期待に昂奮していた捜査班の動きは、事件記者には忘れがたいものである。

捜査線上に上がった“ある皇族の馬丁”

 この緊張はたった2日間だった。

 売却者は2、3日前、庭先で遊んでいる子供が時計のキカイを弄っているのを見つけ、それが自宅の縁の下にあったと聞いて、格別怪しみもせず取り上げて置いたが、1、2日たって外出の折、気がついて、時計屋に見せたところ、いいキカイだからとすぐ買ってくれたので、拾得物横領に若干の後めたさは感じながらそのままにしていたというのだった。

 出来心に恐縮するこの人を前に、一同がっかりしたものの、さて、説教強盗の被害品がはじめて現れたのだから、一歩も二歩も前進である。

 殊に学習院というものが登場したことは、捜査範囲を狭めたものだった。問題の時計の発見された場所は、外の道路とは相当の距離があり、投げこんだものにしても遠くからのものではないと推定されたから、何よりも構内が怪しいということになる。

 かくして捜査は構内居住者の身辺にそそがれ、しらみつぶしの調査となった。

 その結果線上に浮び出たのが、ある皇族の馬丁だった。素行も芳しからぬに金づかいも荒いとわかると、どこからどこまでも犯人臭くなってくる。

 しかし、乗馬好きの皇族の身近にあって、特に御寵愛をうけているのだから、うかつに手は出せない。どうしても現行犯で捕えねばならない。

 うっそうたる茂りに取り巻かれた学習院は忽ち重囲の中に入った。およそ人間が、もぐりこみ得ると思われる個所には、すべて屈強な強力犯の(ああなんとなつかしい言葉だ)刑事が、どぶねずみのように潜んだのである。

 この当時のことを思えば私自身も胸が躍る。これを新聞に書かない条件で私は、この捜査隊の中にいたのである。

 しかも、狙う馬丁の写真も素姓もすべて予定原稿にして、これが捕まって泥を吐くと同時に記事にするつもりで頑張ったのであった。

真犯人に迫る“立太子式の御大典”

 頑張り4日にして大きなニュースが伝わった。立太子式の御大典に摂政宮が京都に御出でになる。被疑者は当然これに従って京都へ行くというのだ。

 この情報のあった夕方、目白のあるソバヤの2階で、恒岡警部はゲッソリした頬をなでながら、“ラクになったじゃねエか。ホシが京都へ行ってれば、被害はねエ筈じゃねエか”と、福島弁で言った。

 皇族の出発と共に学習院の包囲は解かれた。しかし、全然放棄したのではなく、何人かの変装した刑事は依然頑張っていた。

 それからの捜査本部の空気というものは、まことに妙なものだった。毎夜これぞと推定した場所に、刑事連を張り込ませながら、一方に京都からの(もちろん警視庁刑事が尾行して行っていた)情報を待ち、あるいは説教強盗が現れるかも知れないという気持で警戒なるものをつづけていたのである。

 あとになって当局は、この馬丁は一つのちいさな参考にすぎなかったといった。しかし少くも捜査能力の3分の1は、これに注いでいたのだ。

 御大典の日程が本部にも、警視庁の捜査課にもピンで留められていた。

 もし、この被疑者が京都出張中に、説教強盗の被害がなかったら、もう決定的に真犯人である。真犯人だとなったら、一体どんな方法で逮捕するのか。3日たち4日たっても被害届出がなかった。5日たっても当局の説教ゾーンに異状がなかった。

 言葉には出さなかったが、当時の捜査の人々の表情に、一種の変化が浮んだと、私はみているのだ。私自身も、写真まで揃えた予定原稿に、“説教強盗ついに就縛”とか、“世紀の大典の蔭に”などと、赤鉛筆で見出しをつけてみてソワソワしていたのだ。

特ダネに胸躍りすぎて起こった悲劇の秘話

 その大変な期待が7日目に裏切られたのを知ったのは、夕刊締切後であった。こうした当局や私の苦心にかかわりのない本社では、例の如くに“説教またも2ヵ所を荒す”といった見出しで、これが説教強盗の犯行にまちがいのないことまで書き添えていたのだ。

 これは秘話に属する。

 悲喜劇の大ものは報知紙が全面をつぶして報道した説教強盗逮捕の特ダネだった。

 “真犯人を密告し又は捜査に協力したものに懸賞”という同紙の社告は、かなり多くの投書や情報をあつめた。社会部には特別の係を設けて、腕っこきの記者が点検しては、警視庁に連絡して捜査資料にし、これはと思う調査には記者が同行して記事資料にしていた。その中に捜査当局が色めき立つ程のものが出て来たのである。慎重な内偵が進むにつれ、これが八分通り動かないものとなり、当局が緊張するから各社も神経をとがらして、捜査の自動車を追跡したり、報知記者の動きを警戒しはじめた。

 資料と費用と労力を提供している報知社としては、ここまで押しつめて他社に食いこまれてはアブハチとらずになる。そこらに若干の焦りもあったらしい。

 ついにある払暁を期して数人の刑事がおどりこんで逮捕するときまって、社会面はすべてこれで埋め、特に第一線に従っていた記者は、一歩一歩と説教強盗の住宅に近づくスリルを、これでもかとばかり刻明に、存分に描写した。これに間違いないと信じこんだのだから無理はない。刑事が躍りこむ前に、この華かな特ダネ新聞は刷り上ってしまっていたのだ。

 ところがこの新聞が配達されている頃にはもう、この記事全部がウソになってしまっていたのだ。

予期せぬ"犯人と軽侮の娘の関係"

 もう一つ喜劇じみていたのは、説教強盗逮捕の殊勲者の一人である主任の恒岡警部であった。

 逮捕の夜の祝宴でしたたか酔いしれた彼が、麴町の自宅に帰ったのは夜明けに近かったが、翌朝案外早く目がさめてウトウトしていると、一粒種の女児が“お父チャーン”と駈けこんで来た。そして“アタチの知っているオジチャンが新聞に出てる”という。

 恐らく昨夜の祝杯の写真に、友人や新聞記者の顔が出ているのだろうと思いなが

ら、ドレドレとちいちゃな指先の示すのをみると、なんとそれが説教氏だったのだ。

 とたんに彼はドキッとした。あるいはこの犯人、オレの動きを監視してこの娘にとり入っていたんじゃあるまいか?

 いろいろ訊いてみると、やはりソレだったのだ。しかもこのあどけない幼女と説教師のつきあいは昨日今日ではない。少くも1年以上前から、この近所でお話を聞いたり、キャラメルをもらったりして、おしゃべりをしていたらしいのだった。

 はじめは説教氏も苦労したろうが、やがては気心がわかってしまって、“きょうはお父ちゃん、どこ?”と言えば、言下に“イタバシよ”とか“イケブクロ”とか言ったらしい。

 “おうちでねんねしてから、又いくんだって”――とでもいったら、張り込みにちがいない。

 そう判ってみると恒岡警部には思い当ることが多い。誰からともわからない電話で、捜査課へ彼の行先を聞いて来たのは、この娘の言うことがはっきりしなかった時ではなかろうか。高田署へ電話がかかって出たら切れていたのは、所在を確めるためだったにちがいない。

 周到な犯人は、自分を追う恒岡の動静を、間断なく注意して、捜査班の出ていない地区を荒しつづけたのだった。恒岡警部は“もし逮捕前にこれがわかったら、辞表ものだったよ”と溜息をついていた。

説教強盗に続いた"講談強盗"の存在

 この説教氏の出没と前後して、知名人ばかり狙った岡崎勝之助という強盗があり、これが捜査当局を面食らわしたが、脅し文句と共に必ず何かしゃべるところから、当時の東日紙が“講談強盗”の名をつけて、“説教”に対抗のかたちをとった。

 そしてこれが美しいおばさんであった三宅やす子女史を襲うに至って、彼は一躍強盗界の花形になってしまった。

 この三宅女史を被害者とする強盗事件が、どんな騒ぎを起したかは記憶する人も多かろうが、私が忘れられないのは、この犯人のつかまった時の話だ。

 およそ世上を騒がした事件の犯人というものは、桐ヶ谷の量的殺人の如きは別として、捜査当局の科学的な追求によるか、神経のこまかい交番巡査の不審訊問によって、つかまるものが多いのだが、この講談氏はまことに妙な場所で妙な方法でつかまった。

 もちろん、つかまった時にはそんな大モノとは思われず、アトになってウワアということになったのだが――。

講談強盗確保の一部始終 “水、水、水をくれェ!”

 その頃のある朝、銀座松坂屋の6階の売場につとめる娘さんが、いつもの様に出勤して売場に掛けた布をたたみ、はたきをかけていると、どこからとなく出て来たソフト帽の紳士が、すましこんで歩いて来た。

 開店後なら極めてあたりまえのお客さまだから、近くに出ていた何人かの同僚も、それ程怪しみもせず見のがしたのだが、この娘さんだけはすぐにピンと来た。

 “アラ開店前なのに――”思うとすぐ、“もしもし”と呼びかけてその紳士のあとを追った。

 ここで立止って“どちらから?”と聞かれ、ニセ刑事を装うとか、客だと答えてゴタゴタしていれば、あるいは逃げ場も見つかったろうが、何しろスネにキズをもちすぎるから、黙って娘さんに一ベツを与えただけで急ぎ足になった。

 いよいよ怪しいと感じた娘さん、すぐに追いかけながら近くに居合した男店員に知らせ小走りに追いすがろうとした時、エレベーター前にかかった男は、矢庭に階段を駈け下り出した。

 ソレッと追う数名の店員、エレベーターを中にして4階3階2階1階と下った時には、かなりおくれていたが、男がそのまま行き止りの地下へとびこんだのが運のつき、あわてて戻って1階裏手の出入口にかかった時にはもう、衿に手が届かんばかり、男はそれでも必死に駈けて三、四十間、表道路(銀座うら)をいったが、ついに突き倒されて何人かに押えつけられた。

 とたんにこの男、息を切らしながら、

 “水、水、水をくれェ!”

 と叫んだものだ。

 これが講談氏逮捕の状況だった。逮捕の殊勲者は最初にとがめた娘さん、すこしスガ目の可愛い娘さんだった。

説教恐怖時代の役者達

 講談氏、その日築地署でヘトヘトになってねむったが、翌日から刑事部屋で大威張り、“病気さえ持っていなかったら、こんなケチな警察につかまるんじゃなかった”――(彼はひどいゴノコッケン菌になやまされていた。)

 彼は要するにくだらないゴロツキだったし、デパートにもぐりこんで安全のつもりでいるような間抜けでもあったが、説教恐怖時代に著名人ばかりをねらって恐怖時代をつくった役者の一人だった。

 その被害者の中に、下田歌子女史があり、鶴見の総持寺などもあったが、成田山のおさい銭を狙って数日間床下にひそんだことも自白していい気持そうだった。

 思えば、この頃は強盗時代だった。その頂点に説教強盗がいたが、荒っぽくピストルを擬して、新渡戸稲造氏邸を襲って、外国人である夫人に“マネーを出せ”などと脅し、追跡の警官にピストルを乱射した奴もいたし、“俺は説教だ”などというのを脅し文句にした奴も出た。だが切抜きや縮冊版を繰るのが嫌いな私は、私の記憶にのこることだけをここに書いてみた。

(河合 政,小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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