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「東京暮らしをやめた人」に感じる羨望の正体


自分の人生はこれでよかったのか?ふと考えさせられる旅もあります(イラスト:Masami Ushikubo)

『家族無計画』『りこんのこども』などで人気を博するエッセイストの紫原明子さん。この連載でつづるのは、紫原さんが実際に見てきたさまざまな家族の風景と、その記憶の中にある食べ物について。紆余曲折あった、でもどこにでもいる大人たちの過去、現在、そして未来を見つめる物語です。

同級生に会いに大分・別府へ

先日、温泉街として名高い大分県別府市を訪れた。いつのまにか別府のとある名家に嫁いでいた、中学・高校時代の同級生だったMに会うためだ。

この「嫁ぐ」とか「嫁に行く」とかいう言葉、考えてみると最近はあまり使わなくなった。


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いちばんの理由は、結婚の実態に即さなくなっているためだろう。身近な友人たちの結婚を振り返ってみても、ほとんどが当人同士の個人的な意志や感情で決まっていて、そこにお互いの家や家族はほとんど関与していない。たとえ相手の戸籍に入っても、本人にも周囲にも、相手の「家」に入ったというような意識は薄く、現代は夫や妻になることが、必ずしも婿や嫁になることと同義とは言い切れない。

けれども、こと地方の老舗企業の跡取りとの結婚、またそれに伴って、女性のほうが仕事を辞め、その地域に移り住むというような場合には、やっぱり「嫁ぐ」がしっくりくる。その家族の一員となることが、「私」のみならず「公」でも意味を持つのだ。

結婚と家が、切り離せない。実際Mも入籍後、夫とともに地域の取引先へあいさつに回ったという。新しい環境に身を置いて奮闘しているであろうMに、急に会いたくなった。

東京から大分空港まで1時間40分、空港からはリムジンバスに乗って40分ほどで別府に到着する。連なる雄大な山々を背景に、街の至る所から温泉の蒸気がもくもくと立ち上る。別府らしいこの景色には、見覚えがある。子どもの頃、何度か家族旅行で訪れたときの記憶が、ぼんやりと蘇った。

事前に待ち合わせた店を訪ねると、Mが待っていてくれた。

「変わってないねえ」

思わず言うと、Mも私に同じ言葉を返してきて、顔を見合わせて笑った。

最後に会ったのはちょうど10年前。当時、彼女は都内のデザイン会社で働いていて、私は子育て中の専業主婦だった。会わない10年の間に、Mは結婚し仕事を辞め、私は離婚して仕事を始めた。状況はいろいろと変わっても、お互い本質的なところはそう大きく変わらない。変われないのかもしれない。

「こっちの生活はどう?」

私が尋ねるとMは言う。

「別府はいいところだよ。人もいいし、自然も豊かだし。毎日少しずつ景色が変わっていくから飽きないんだよ。それに、自分がどこかに行かなくても、遠くからこうしていろんな人が来てくれるから、毎日楽しいよ」

おっとりとした中にも、確かな芯の強さを感じさせるM。思えばMは昔からこの強さでもって目の前のものと根気強く向き合い、多くの人が見逃してしまいそうなわずかな変化や一瞬の美しさを、捉えることのできる人物だった。

Mに気づいた店の人が帰りしな、私たちにプリンをサービスしてくれた。その様子を見て、あらためてMは、この地の人になったのだなと思う。それも普通とは違う、特別な「家」を背負って。

鉄輪温泉地区の“地獄蒸し”

今回の旅行で私は、鉄輪温泉地区にある湯治の宿を予約していた。湯治と言っても1泊2日という短い滞在だが、何しろこの宿にはとっておきの決め手があった。温泉や炊事場に加えて、“地獄蒸し”のための石造りの蒸し窯、その名も“地獄釜”が設置されているのだ。

地獄蒸しというのは、この地域に江戸時代から伝わる伝統料理で、野菜や卵、肉や魚を、高温の温泉の噴気で急速に蒸し上げる調理法だ。専用の“地獄釜”は石造りの腰くらいの高さのもので、上部に複数の穴が開けられている。

穴の一つひとつに温泉の蒸気を送り込む管が通されており、調理時には穴の中を高温の蒸気で充満させるのだ。今回泊まった宿では、中庭に設置されているこの地獄釜を、宿泊者なら24時間いつでも自由に利用できる。

そこで私はチェックイン後、早々にやってみることにした。近くの商店で買ってきた野菜を自炊場で適当な大きさに切って、備え置かれたザルに並べる。

それをざるごと石窯の中に入れ、窯の口を木製の四角いふたでふさぐと、釜下にある蒸気のバルブを全開にひねる。すると、直後にふたの隙間の四方からも、プシューっと白い煙が噴き出してくる。周囲に、一層強い硫黄の香りが立ち込める。

そのまま待つこと20分。仕上がりを食べてみて驚いた。キャベツも、しめじも、じゃがいもも、それぞれの味がいつもより格段に濃い。調味料を何もつけなくても感じられる甘みや旨みに、つい次々と伸びる手が止まらなくなる。ただの野菜を、これほどおいしいと思ったのはいつ以来だろう。

「おいしいでしょ。温泉の噴気にはミネラルが豊富だから、普通に蒸すよりおいしくなるんだよ。卵なら一晩蒸すといいよ。風味と塩気がより濃くなってうまいんだよ、これが」

夢中で食べていると、通りがかった男性の泊まり客が教えてくれた。なんでもこちらの温泉の泉質によって、噴気にさらされた食材は絶妙な塩梅で塩気を帯びるのだそうだ。ここにはよく来るんですか、と尋ねると男性はうなずく。

「県内に住んでるから、ほんとは家でも温泉に入れるの。でもここが気に入っちゃってね、年に数回は来てる。静かだし、自炊できるし、仕事だってはかどるよ」

けれども、男性の言葉にはこちらの方言やアクセントにまったく訛(なま)りがない点を不思議に思っていると、すぐにその理由が判明した。

「もともとは俺も長いこと東京に住んでたんだけど、とくに震災以降、東京の生活がどんどん合わなくなってね。最後は体調を崩して、仕方がないから3年前に、地元の大分に戻ってきたの。こっちに来たら、体調もすぐによくなった。そういう人、この辺には結構多いよ。東京にいるとさ、色々キリがないじゃない?」

男性が困ったように笑いながら言った「キリがない」は、漠然としているけれど、とてもよく分かる気がした。

毎日、景色の移ろいを眺めたり、旅人を迎え入れたり、自然が可能にするシンプルな料理を味わったり。今回別府の地でMや、この男性の暮らしの一端に触れたことで、どうしてもいろいろなことを考えさせられた。

「拠り所のない気持ち」の正体

伝統やしきたり、田舎や、田舎特有の地域とのつながりといったものを私自身は、長らく意図的に避けてきた。実家を離れ東京に出てきたのも、引っ越しを何度となく繰り返してきたのも、長く1カ所にとどまると、みるみる何かにとらわれ、動けなくなりそうな気がしたからだ。都会のように人の多い場所でなければ、誰かの視線を逃れて、気楽に暮らせないような気がしたからだ。

この選択が間違っていたとは思わないが、そろそろまたどこかに逃げ出したい、けれどももうこれ以上逃げる場所はあっただろうかと、途方に暮れるよりほかないというような、そんな気持ちになるときがある。

今回の旅で結局、ひとつもお土産らしいお土産をを買わなかった。なぜならお土産屋さんで売られているほとんどのものが、欲しいと思えば東京ですぐに手に入るからだ。だけどそんなふうに、何でも手に入り何にも縛られない便利な暮らしの中で、気づけば自分の居場所を見失いそうになってしまう。

もしかしたらもう、飽きることにも飽きつつあるのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。何度も住まいを変えたり、毎日、昨日とは違ういろんな国のご飯を食べたり、数時間おきにインターネットで新しい情報を取りに行ったり。見えない何かに急かされるように、飽きては手放し、これではない、ここではないと、より新しく刺激の強いものを求め続けるキリのない暮らしそのものに、いよいよ、飽きてしまいつつあるのかもしれない。

きっと他人には見せないだけで、当然Mの中には、立場に付随したさまざまな重責や葛藤もあるだろう。けれども身勝手な友人からは、少なくともこの自然豊かな土地で、家や伝統といった、自分を強力に1カ所にとめ置いてくれる環境を持つMが、どこかうらやましくも感じられたのだった。

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