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「大日本帝国時代は本当にいい時代だった」 パラオの人はなぜ今も親日なのか

パラオの人はなぜ今も親日なのか

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大日本帝国を懐かしむ人たち

 毎年8月になると戦争関連の書籍、報道、番組、記事が増える。基本的に全面的に肯定する人はいないものの、先の戦争の評価は人それぞれである。「日本のやったことはすべて悪い」という立場もあれば、「仕方が無かった面もある」「良かった点もある」という立場もある。前者は後者を「歴史修正主義」などと批判し、後者は前者を「自虐史観」と批判する。これもまた毎年のように繰り返される光景だ。

 このように戦争についての論争が自由に行われること自体、いくつかの近隣の国では見られないことかもしれない。
 概してメジャーなメディアでは「日本は悪いことをした」というトーンの論調が主流だが、その視点からは抜け落ちてしまう人たちも存在する。
 大日本帝国が支配していた時代を懐かしむ人たちだ。
「日本は良いこともやった」と当の日本人が主張した場合、批判を浴びがちだが、実際に大日本帝国の支配を受けながらも今でも好意的に語る現地の人たちの存在は、ある種の論者には不都合な存在なのかもしれない。

パラオの人はなぜ今も親日なのか

 たとえばパラオ諸島を含む南洋の島々には、今でも大日本帝国の統治下を知る人たちが存在している。
 彼らはその前にはドイツの支配下にあり、戦後はアメリカの強い影響下にあった。その経験を踏まえてもなお、大日本帝国時代を懐かしむ声は決して少なくない。
 たとえば、現地の老婦人、カズエさんはこう語る(名前は日本風だが、パラオ人。当時はこういう人が多かった)。

なぜ彼らは、戦後も日本を恨まなかったのか? 貴重な証言で甦る「日本統治時代」の実像。『日本を愛した植民地 南洋パラオの真実』荒井利子[著]新潮社

「日本時代は楽しい時代だったのよ。私は本当に感謝してますよ。私が生まれたのは日本時代の真っ盛りでしたからねえ。昔は楽な生活だったのよ。食べ物にも困らないしね。日本の時代は本当にいい時代だったのよ」

 なぜなのか。
 数多くの現地の人たちの証言を集めた『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)に収められた肉声を中心に紹介しながら、同書をもとにその理由を見ていこう(上の老婦人のコメントも含め、以下、引用はすべて同書より)。

ドイツの恐怖支配

 パラオ諸島を含むミクロネシアに一早く目を付けたのはスペインだった。彼らの目的はキリスト教の布教。スペイン政府は現地に学校を建てて、西洋の価値観を広めようとした。
 そこに狙いをつけたのがドイツだ。スペインとの奪い合いの末、いろいろな経緯を経たうえで、武力と財力によってドイツは19世紀末にはミクロネシア全域を領土とする。
 このドイツ時代の支配は、簡単にいえば強国が植民地に対して行なう悪い支配の典型のようなものだった。最初こそ教育にも力を入れたものの現地で鉱石が発見されるや、現地人に労働を強い、従わない者には鞭打ちなど厳しい刑を与えた。親から当時のことを聞いているパラオ人のフジオさんは、こう語っている。

「ポンペイ島では、強制労働への反発からドイツと戦争のような事態になりました。この件ではドイツ人の知事も殺されました。パラオの人も反乱を起こしました。あんまりひどい扱いを受けましたからね。
 ドイツ人はパラオの人を処刑する時はみんなが見ている前でやるんです。
 反乱を起こしたうちの3人のパラオ人が撃たれた。それをパラオ公園にある大きな木に吊るしたんです。日本人はそんなことしませんでした」

 第1次大戦後、ミクロネシアは日本の委任統治領となる。これは植民地ほどの権限は持たず、物質面や精神面で現地住民が幸福な生活を送れるようにし、いずれ独立国家としてやっていけるように支援する政策にすべきだ、ということが戦勝国の間で決められた。こうした決定に日本は不満もあったものの、結果的には従っている。
 こうして大日本帝国はミクロネシアを統治することとなる。その大方針として、「島民の福祉の増進」が掲げられた。もちろん、当時のこの種の統治なので、一種の同化政策が進められたのは事実で、現在の視点から見れば問題もあるだろう。
 ただ、ドイツ時代と比べると島民の受け止め方ははるかに好意的だった。ドイツは2千もの島々が広がる中に、25人ほどの役人を配置しただけだったが、日本は1922年に「南洋庁」を設置すると、職員だけでも603人を配属した。
 先に証言を紹介したカズエさんはこう語っている。

「ドイツの占領時代に来たドイツ人はたった1人ね。軍人だと思うわ。私たちを見張りに来てたのよ。日本になったらみんなここに生活に来たでしょ。それで日本時代が本当にすばらしい時代になったの。それがドイツと日本の違いなのよ」

差別はつけない

 日本政府はパラオにさまざまな投資をし、インフラを整備した。もちろんそうした行為は無償のものではなく、多分に計算もあっただろう。この地域に拠点を持つことは、軍事的にも意味を持つ。それでもなお島民たちの心をつかめたのは、移住してきた日本人たちの振る舞いも大きかったようだ。たとえば、学校では島民と日本人、両方の子供が机を並べて学べるようになっていた。
 当時、父親が小学校の校長をつとめていたという日本人男性はこう語っている。

「親父からは、島民の子どもたちと私たち日本人と差別はつけないようにと、非常に厳しく注意されました。だからうちのお袋は、僕も僕の友達も同じように扱っていました」

 スペインの時代も、ドイツの時代も、島民を家の中に招き入れるようなことはなかったが、日本人はそれをした。この男性は、日本で退職した後、故郷となる島に戻り、幼馴染と何十年ぶりかの再会を果たし、現地で日本語を教えるようになったという。日本統治時代の良好な関係が窺えるエピソードだろう。
 こうした証言を「支配者側の言い分だ」と疑う向きもいるかもしれないので、当時小学校に通っていた男性(ガロンさん)の証言も紹介しておこう。

「先生たちには、日本の子どももヤップの子どもも、同じように扱いたいということがありました。どっちも日本人にしたいという感じがあった。
 朝礼では、日本に向かってお辞儀しました。カレンダーには紀元節、天長節、お正月とかちゃんと書いてあった。その日が来ると、日本の日の丸の旗を掲げて式をしました。それが終わると、パン2個ずつ子どもたちに配って村に帰した。紅白の丸い小さなパンだった。日本人と同じように扱ってくれていた」

 ガロンさんにとって、学校での遠足、運動会、さまざまな行事はいまでも良い思い出だ。
 一方で、こうも語っている。

「戦後になって、昔のやり方がみんな滅びてしまった。どうしたら人間の幸せが手に入るかわからなくなった」

 ミクロネシアの人たちは、この後、日本の戦争に巻き込まれ、結果として多くの島が甚大な被害を受けている。
 そんな日本の統治から離れたにもかかわらず、戦後手に入れた自由をかならずしも肯定的に語らない島民は少なくない。

 その理由は、次回、ご紹介しよう。

デイリー新潮編集部

2018年8月18日 掲載

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