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根っからの「傍流・辺境の人」がコンサルタントになるまで

Photo by Yoshihisa Wada

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 2016年1月1日付けでボストンコンサルティンググループ(BCG)日本代表を退任した。

 恥ずかしながら、私の人生はいつも「普通の道」からちょっと外れることの繰り返しだった。普通ならこうするのが望ましい、という道を希望したら、必ずといっていいほど、そうならない。そのうち、保守本流的なものが苦手になりどちらかと言えばアウトサイダー側を好むようになった。

 そんな人間が、コンサルタントという「保守本流的なリーダー」の皆さんを支える仕事を生業にし、気がついてみると23年もの時がたっている。自分が本流に立つのではなく、少し外から手助けをするという仕事だ。さまざまな偶然が重なって、予想もしなかった長期間、コンサルタントであり続けたのは、これが案外、自分らしい仕事だったからかもしれない。

 さらに言えば、BCGに入る以前に、本社や役員フロアではなく現場にこそ真実がある、ということを学ぶ「運」に恵まれた。このことが、留学やコンサルタントとしての仕事にも随分役立ってきた。

 振り返ると、どうやら、「中心ではなく周辺にこそ自分らしさがある」という隠れた通奏低音に導かれて、ここまでの人生を送ってきたようでもある。

「サラリーマンにはなるな」と諭した中高教師

 中学時代にジャニス・ジョプリンにはまってから、彼女の音楽的ルーツである黒人音楽が好きになり、京都大学時代は7人編成のR&B系のバンドを組み、ヴォーカルをしていた。今でもある京都の「拾得」などいろいろなライブハウスで演奏、少額でも全員にギャラを払えるくらいにはなっていた。当時であれば、セミプロぐらいのレベルにはなっていたと思う。

 そうこうしているうちに、気づいてしまったのは、自分は黒人のようには歌えないということ。自然に声を出すと、知らず知らずにこぶしが利いてしまう。要は、根っこが演歌的なのだ。肝心の声の質も、大好きなソウルシンガーたちのハスキーなものとはまったく違う。これではプロとして食べていくのはまず無理だと諦めることになった。

 音楽で食べていけないとなると、たちまち進路に悩むことになる。当時通っていたのは京都大学の文学部。文学部を選んだ最大の理由は、中学、高校とお世話になったクラブ顧問の先生から、「悪いことは言わないから御立はサラリーマンになるな。上司と大喧嘩する。下手したら殴って辞めるだけだ」と諭されて、それもそうだと妙に納得し、就職に向いた経済学部や法学部ではなく、大学に残る道を考えて文学部を選んだのだ。もう少し物理が得意だったら、理学部に行ったかもしれない。

 当時の京大アメリカ文学科は、アメリカ文学を読むのに、まず必修科目としてラテン語を学ぶといった、超伝統的な学風だったのだが、私の卒論のテーマはカート・ヴォネガット。今でこそ、村上春樹が影響を受けたこともあって、きちんとした文学として扱われているが、当時は早川書房から出た翻訳がSFの棚に置かれる「評価の定まらないマイナー作家」だと考えられていた。バンド活動が忙しく、あまり学校に行っていなかった上に、こういう作家を選ぶ、ということで、教授にもあまり良い顔をされず、大学院に進学し、研究者になるなどというのは、ありえない感じになってしまった。

 バンドマンとして食べていくのは無理だし、大学に残るのもだめ。大学4年の秋になってから、仕方なしに就職を考えはじめたのだが、そうなって初めて(当時は普通だった)指定校指定学部制度の壁に気づいた。要は、決まった学校の経済学部や法学部でないと、商社や銀行などの一流企業は受け付けてくれない、ということ。文学部はお呼びでないのだ。

 そんな中で、音楽関係ということもあって紹介してくださった方があった(エピックソニーという子会社を作るための)CBSソニーの募集に応募した。約6000人の応募者に合格者は3人という超難関で、強運もあったのか採用通知をもらった。

 ところが、内定すると人事部の人から「お前は国立大学卒だから、現場を数年やったら人事か経営企画に上げてやるよ」と言われる。若気の至りで、誠にお恥ずかしい限りだが、「上げてやるよ」という表現にカチンと来てしまった。そもそも音楽の現場にいたくて希望した会社なのに、それができないのでは入社しても意味がない。そう考えて、折角の内定を断ってしまった。

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